◆「自信」はほど遠いところにあるものではない

ある年のカウンセリング納めに来られた
クライアントのAさん。
(blogに書かせて頂くことを了承頂きました)

初めて受けられた頃は自分がよくわからない。
認める、肯定するということがさっぱりわからない。
人との距離間がわからない。
公私とも強い口調や圧がキツイ人を
前にすると萎縮してしまう言われるがまま従う。
自分の考えを言えない、言わない。

生きづらさをいっぱいいっぱい
抱えてのスタートでした。

ですが、今ここ随分変わられました。

今もうまくいかない時思うようにいかないこと、
悩み落ち込まれる時もあります。

ですがカウンセリングを重ね毎度毎度、
感じていることを口にし、自覚することで
自分という人間の輪郭、重みを感じられるようになられました。

人とのやりとりでは実践、検証、シュミレーションを
また実践の繰り返し。
そうすることで徐々に人の言いなりになることが
なくなられていきました。

Aさんがおっしゃったひとこと。

「自信」はほど遠い所に
あるものではないんですね

これまで「自信」は自分には大きく
遠いものだと思っていましたが違うとわかりました。

失敗は失敗ではない。
うまくいかなくてもそれがゴールではない。
全てではない。

トライandエラーを繰り返し、
出来るようになった小さな経験の
積み重ねが自信を創るとわかった!

これからも自信を育てていきます‼︎

きっぱり言いきる笑顔のAさんの姿に
胸があつくなりました。

ほんっとに素敵な堂々たる笑顔でした。

◆自己肯定感を試された、研修翌日

以前受けた心理研修はテーマが
「教育現場における自己肯定感を考える」でした。

教育現場で生じる様々な問題の根底には
「自己肯定感(自尊感情)」の高低、歪み、バランスの悪さが
影響していると考えられます。

だからこそ自己肯定感(自尊感情)を
様々な角度やデーターから検証、理解し
教育の現場に活かすという内容でした。

自己肯定感は一つの見方として
3つの要素で構成されると考えられます。

(1)自己意識の高まり
自尊心。自己受容。自己有用感。
自己評価。自己効力感など

(2)他者意識の高まり。
人との関係や社会との繋がりの中で
自他の存在を認め関われること。
(例、頼り、頼られる)

(3)今しだいで未来が変わること
理想の結果に繋がることを信じて動く。

要は、上記3つが互いに相補的に機能し
高まる状態が自己肯定感のバランスが
よい状態といえます。

ということを含め
他にもたーっぷり学んだその翌日
やってしまいました。

大阪で約束があり出かけた際携帯を忘れました。
しかも気付いたのが電車の中。

初めていく場所で、先方の電話番号もわからない。
どーしよーどうする?

焦る〜、落ち着けアタシ、早速実践です。

(1)自己意識の高まり
→ 落ち込んでも始まらん。
  忘れたもんは仕方ない。
 場所の方向と名前はわかるよね
  時間も余裕がある
 何とかなる!出来る!

(2)他者意識の高まり
→ とりあえず人に聞こう
  駅員さん、コンビニ2件
 マクドの店員さん、
  ダイソーの店員さん、
 ハシゴ的に聞いて教えて頂きました。
 (一応、手があいていらっしゃる方を選んで声かけた)

(3)今次第で未来が変わること
理想の結果に繋がることを信じて動く
→ 電車の中では知り合いがいないかキョロキョロした(笑)
→ 場所を聞いた時、人によっては
迷惑そうな方もおられたけれど
 スマホで調べて下さったり
地図を見せてくださったりした。
 お詫びと感謝を丁寧に伝え
助けてもらうのを諦めなかった。
→ 間に合うよう走った。

というわけで結果。

約束の時間ぴったりに間に合いました!
感謝感謝感謝!

それにしても研修の翌日、
自己肯定感の機能が問われるとは
いやはや、持ってますね。

てか気をつけろよって話しです。えーはい!

あと万が一に備えて
近親者の連絡先は携帯電話意外に
メモして持ち歩こうと思いました。

教育現場へのみならず自身の自己肯定感機能
まだまだ伸び代あり。
日々、実践です。

見ず知らずの方々に沢山
助けて頂き感謝感謝の一日でした。
私も人の力になるぞー!

◆見ず知らずの医療従事者のおかげで気づいた問題対処法

親族が、原因不明の腹痛で苦しみ
夜中に救急車を呼んだことがありました。

救急車はすぐ来たもののコロナ禍で搬送先が決まらず
車内で30分ほど待機しました。
その間に意識が徐々にハッキリし症状も落ちついていきました。

それもあってこちらも慌てることなく冷静で
現状をどこか離れたところから
観ているような感覚になりました。

救急隊員の方々の手際良い対応、連携、
病院についてからは医師、看護師さんたちがテキパキ処置をされ
患者への語りかけは目線を合わせ音量に気を配り、
それはそれは丁寧に話かけてくださる姿に胸が熱くなりました。

医療者も色んな方がおられます。
自他ともに当たり外れを経験したこともあります。
ですがその時の方々は素晴らしかった。

仕事だからこそ、出来るのかもしれません。

良くも悪くも「感情」や「気分」を介せず、
目の前の患者に今出来ることをやる、
それだけでした。

近年、親族関係で理不尽だと思うこと、
どこへも持っていきようのない案件や気持ちを抱え
弁護士や専門家にも対応不可能な、解決が難しい諸問題に直面し
怒り、哀しみ、虚しさを沢山味わいました。

どんなにおかしいやろと思うことでも、法にひっかからず
悔しい思いをしたこともありました。

救急車の件があった時は渦中だったこともありしんどい時期でしたが
医療者たちの対応が問題の対処へのヒントになり
私が変わるきっかけにもなりました。

医療従事者の方々が見せてくれた相手が知人であろうがなかろうが
今、目の前のことに集中する姿勢。

もし自分がこの姿勢で渦中の問題に
相手に対応できたら何か変わるのではないか?

そしてやるだけのことをやって
どうにもならないことはもう流れに任せるしかない。

そのような境地に目覚めたのです。

医療従事者は患者に対して相手が誰かは関係ありません。
極端な言い方をすれば善人であろうが悪人であろうが関係ない。
目の前の人、状態にやるべきこと出来ることを粛々とやる。
それだけ。

気持ちや、情、価値観、使命なども
切り離す。今必要なことだけを選んでやる。

これを自分の難解問題や人間関係にも出来ないかな?
それが出来れば悩みやしがらみから解放されるのかな。
軽減されるかもしれない。

そう思うと安心感が湧きました。

それ以来問題に関わる時はその時の光景を思いだし、
対応するようにしています。

だからといって怒りや哀しみ、虚しさが
無くなるわけではありません。
人の心はそんな単純なものではないからです。

ですが以前とは違い感情的に関わることが減り、
ドロドロした負の感情も分けてケアできるようになり
随分ラクになりました。

不思議ですね。
問題は解決していないんですが、気持ちは穏やかになっていく。

それまでは救急車をみたり
サイレンを聞くと気持ちが曇りましたが
それ以来、「大丈夫!うまくいく!」を
連想させるシンボルになりつつあります。

見ず知らずの医療従事者の方々の
おかげで気づかせてもらった
問題対処法。

大きな気づきを得た救急外来の機会となりました。

これらは私生活のみならず仕事に対しても活きています。
転んでも、傷ついてもタダでは起き上がらない。
おかげ様です。

◆輪を乱す人への関わり。パシッとさら〜っと境界をひくのも一つ

重なる時は重なるものですね。

しばらく会っていなかった友だちや
同級生、旧知の仕事仲間から相次いで連絡があり、
来月それぞれに集まることになりました。

中には20年ぶりに会う人もいて
わたしゃ気持ちは浦島太郎状態。
きっと皆いいおっちゃん、マダムになってるはず(笑)
少しの緊張とうれしさのある楽しみ感。
やっぱ友だちっていいもんです。

こんな時どの集まりでも中心になってまとめたり繋いでくれたり
言い出しっぺが幹事役をしてくれることが多いですが
ごくたまーーーに、自分は何もせず
いらんことを言うてくる人がいる時があります。
ありません?

例えば
遠方にいる子が帰省するのでその子に合わせて予定調整し、
決まったにもかかわらず、その子自体が
「予定がどうなるかわからないから行けるかわからない」
とか言い出すパターン。

幹事の子が困って私に相談が来た時には
ワケワカメになりました。

それぞれ事情があるでしょうが
ちょっとどうかなと思い、自分の意見を言いました。

「合わせなくていいと思う。
こちらのベストの日を決めて
来れるんやったらどうぞって私なら言うわ」  

パシッ!さら〜っときょーかい線!

色んな価値観や温度があるかと思いますが
複数人になるほどどこかで折り合いをつけないとね。
振り回されないよう調整することも必要だと感じた経験でした。

こんな時本人と話し合うも一つですが
距離間や言い方で感情論になり
会自体がこじれる可能性もあります。
ならば否定も肯定せず線をひくのもひとつかなと。

それと自分も悪気なく自覚なく
振り回しているかもしれないので気をつけなきゃですね。

◆意地悪な心

自分の中に利他的な心もあれば
意地悪な心も存在します。

意地悪が発動する時は相手が嫌いな人である場合もあれば、
直接何かされたわけではないのに、言い易い相手だからという理由や
中には普段仲がいいのに発動してしまう時もあります。

する側よりされた側はずっと覚えていることが多いと思います。

一方で私は、自分が人にやった意地悪を思い出す時もあります。

それは学生(中1)の時でした。
ある子の体型や容姿に関してどうにもかえれない部分をツッコミ、
その子の困る顔をみてどこかスッとする感覚を味わっていたのです。

そのスッとする感覚とは「優越感」ですが
結局それが原因で後にその子や周りから無視されるようになり
本人にゆるしてもらうことは出来ませんでした。

人に意地悪な心がわき実行してしまう時。
決して弁明したり弁護するわけではありませんが、
やる側は心が満たされていません。

・人に十分に認めてもらえていない。
・何らかしらの圧やストレスを
 抱えてきている。
・安心できない人間関係の中にいる。
・心配や不安がある。
・かまってもらえてない。
・寂しい。
・条件つきでしか愛されない。
・他から意地悪されてきている
 など

このようなカッスカスの心の状態だと
歪んだ形で自分を満たそうと
人を利用してしまう、、、かなしいですね。

今となっては当時の相手に
もう会うこともこの先多分ないでしょうが、
思い出すたび胸がチクチクするのは
これからも変わらない。
自分がやったことの代償だと思っています。
本当に申し訳ないことをしました。

そして同時に当時の自分に対し、
時空を超えてたっぷり愛情を注いであげることも
続けたいと思っています。