◆障害を持って生まれてきた親戚の子と、パパママから教わったこと

親戚に障害を持って生まれてきた子がいます。
とても稀な病気で何十万人に1人の確立だそうです。

ですが今、その子のことを必要以上に心配になりません。
また、年々、心が痛むことが少なくなりました。

とはいえその子と逢うまでは
他人や、他人のお子さんに関わった時に
それが起きることがありました。

正直言うと自分が出産した20数年前は
「どうか障害を持たずに生まれてきますように」と願い、
生まれたばかりの我が子をみて確認している自分もいました。

そんな自分が、血縁者にそう思わなくなったのは
その子と、パパとママからの影響を大きく受けたからです。

パパとママは、我が子の障害に驚き
ショックは受けましたが悲観しませんでした。

神様、仏様に祈りその時々出来ることを
せーいっぱい取り組んでこられました。

ママは、0才の病院生活時、子どもの命が助かったら、
「一年間、動物を食べるのを自粛します」と祈り、
自分に誓われ、実際数年後実行されました。

一方パパは、元々のんびり屋さん。

「大丈夫、なんとかなる」と楽観的で
ママが食べたいものを必死で我慢していても、
肉や魚をパクパク食べてた(笑)‼︎

ですがいつも我が子に
「可愛い、可愛い」と愛情を注ぎ、
「誰かと比較し落ち込む」を
されることがありませんでした。

もちろん療育や教育上何が出来て、
出来ていないかを知ることは必要でしたが
だからといってそれを悲観材料にし
必要以上に落ち込まれた姿を見たことがないです。

だって、それぞれ違うんやから、と。

生まれた時からその子自身をあるがまま
観ておられるんだなぁと諸処で感じとれました。

なので、その子自身誰かと比べて「勝る、劣る」や
過度な劣等感等を現在持っていないです。ほーんとに。
区別はあるけれど、差別がない。

例えその子が外から様々な目でみられても、
本人の辞書には「差別」や「優劣」の経験が身近にないので
「だから何?」と反応が薄い。

私は昔、障害をもつお子さんの療育と
家庭教師をしていたことがあります。

その時に担当した親御さんは赤ちゃんの頃から、
出来る限り健常の状態に近づけようと
障害だからこそ特長が出るお顔に針治療や、
あらゆることを行い努力されていました。

その親御さんの行動も我が子を思う気持ちの現れ。
なので、それは当時も今も理解できます。

ですが近年、親戚と関わるようになって
私自身、当時の感覚から変化していきました。

その1番は、
「そもそも人は、比較や差別を見聞きし
経験しなければ、それ自体を知らずに育つ」
という循環を目の当たりにしたこと。

その子のパパとママに悩みがないわけではありません。
心配や不安もあるでしょうしマイノリティだからこその
気がかりもあると思います。

ですが、親子と接していると
いつもどこかどっしりした安心感があり
しあわせな、あたたかい気持ちになります。

人は生まれてくる時誰もが個々に神様から
贈りものをもらってくると絵本で読んだことがありました。

ある子は、やさしさを
ある子は、声の美しさを
ある子は、力持ち
ある子は、器用さを
ある子は、繊細さを
ある子は、、、

親戚の子も、そのパパもママも
あなたも、私も、みんなみな、みーーーんな‼︎
贈りものをもらって生まれてきているんやろなぁ

彼らと会うたび、その確信が強くなり
また自身も贈りものを活かせるように
生きていきたいなと気力がわきます。

贈りものを活かすためには
区別はあれど、差別は要らない。

そう教えてくれた人たちが親戚であること
喜びであり、誇りです。