◆怒りと悲しみをあたかも正当な理由で押し込めないで、誤魔化さないで

人の投稿を見ていて
大きく反応したことがありました。

この人は命の重さをどう思ってるんやろうか?

一見きれいな言葉で
ポジティブに見える内容にみえましたが
人の生死に関する捉え方が軽く感じられ反応しました。

ハテナがたくさん出てフツフツ怒りが湧き
その後哀しい虚しい気持ちになりました。

なぜこんなに強く反応するんやろか?
自問自答しました。

それは人に期待していた自分がいたこと
そしてその反応には
過去に自分が人から軽んじられたことや
同時に自分が自分を軽んじ苦しめたことに
起因していると気づきました。

何もなければ
大なり小なり反応はしないはずですから。

そしてその後の
心の動きにもパンチを受けました。
(まだ続く?キッツー)

それは不快のあとに
「その人は、それだけ自覚なき根深い傷を
いまだ背負ってるんやな。だから仕方ない」と
納得させようとしたことに気づきました。

確かにそうなのかもしれません。

でも私がすぐ思ったのは
そう思うことで納得しようとしただけです。

つまり自分の不快をあたかも
正当な理由をつけて(知性化、合理化)
おさめようとしていただけだと思います。

何故気づいたか?

それは自分が小学校の時に受けたいじめを思いだしたからです。

私は小3〜小4まで
同級生にいじめを受けていました。

毎日暴言を吐かれる
手もあげられる。
片道40分の通学路は荷物持ち。
溝を歩けと命令され従う
大人が見ている時と
見ていない時の差がはげしいなど
これらごく一部ですが
2年間耐え続けました。

嫌、やめてと言えなかった。

それは大人に言っても
どうせわかってくれないだろうと
思っていたし余計酷くなるのが
こわかったから。

そしてそれ以上に耐えた原因は
いじめた相手が、
親から酷い虐待を受けていたことを
見て知っていたからです。

この子はかわいそうな子。

だから私にこんなことをしても
仕方ないんやと思っていたのです。

虐待を受けている子だから
友達をいじめることは仕方ない?

逆に虐待を受けたから
人をいじめていい?

(私も人をいじめたことがあります)

今思うとおかしいことですが
きっと私はそう思うことで正当な理由がほしく
自分が悪いのではないと思いたかったのだと思います。

今思うとそんな風に正当化しなくていい。

嫌なもんは嫌

ダメなものはダメ

そう思うのは自然なこと。

大人になった今も
理不尽を目の当たりにした時に
すぐ正当な理由をつけて
気持ちをなだめがちですが
その心の使い方は
手放していきたいです。

哀しいものは哀しい

怒りは怒り

おかしいもんはおかしい

それズルイやんと腹たっていい

何かあった時
それが過去に体験していても
そんなに簡単に切り替えられるものではない。

心をもって生きているから
悲しみや喜びも怒りもリアルに感じるのは
自然なことです。

すぐ誤魔化す自分も受けとめながら
ズルさを手放しラクになっていきたい。

抽象的な内容ですが等身大で書きました。