◆見ず知らずの医療従事者のおかげで気づいた問題対処法

親族が、原因不明の腹痛で苦しみ
夜中に救急車を呼んだことがありました。

救急車はすぐ来たもののコロナ禍で搬送先が決まらず
車内で30分ほど待機しました。
その間に意識が徐々にハッキリし症状も落ちついていきました。

それもあってこちらも慌てることなく冷静で
現状をどこか離れたところから
観ているような感覚になりました。

救急隊員の方々の手際良い対応、連携、
病院についてからは医師、看護師さんたちがテキパキ処置をされ
患者への語りかけは目線を合わせ音量に気を配り、
それはそれは丁寧に話かけてくださる姿に胸が熱くなりました。

医療者も色んな方がおられます。
自他ともに当たり外れを経験したこともあります。
ですがその時の方々は素晴らしかった。

仕事だからこそ、出来るのかもしれません。

良くも悪くも「感情」や「気分」を介せず、
目の前の患者に今出来ることをやる、
それだけでした。

近年、親族関係で理不尽だと思うこと、
どこへも持っていきようのない案件や気持ちを抱え
弁護士や専門家にも対応不可能な、解決が難しい諸問題に直面し
怒り、哀しみ、虚しさを沢山味わいました。

どんなにおかしいやろと思うことでも、法にひっかからず
悔しい思いをしたこともありました。

救急車の件があった時は渦中だったこともありしんどい時期でしたが
医療者たちの対応が問題の対処へのヒントになり
私が変わるきっかけにもなりました。

医療従事者の方々が見せてくれた相手が知人であろうがなかろうが
今、目の前のことに集中する姿勢。

もし自分がこの姿勢で渦中の問題に
相手に対応できたら何か変わるのではないか?

そしてやるだけのことをやって
どうにもならないことはもう流れに任せるしかない。

そのような境地に目覚めたのです。

医療従事者は患者に対して相手が誰かは関係ありません。
極端な言い方をすれば善人であろうが悪人であろうが関係ない。
目の前の人、状態にやるべきこと出来ることを粛々とやる。
それだけ。

気持ちや、情、価値観、使命なども
切り離す。今必要なことだけを選んでやる。

これを自分の難解問題や人間関係にも出来ないかな?
それが出来れば悩みやしがらみから解放されるのかな。
軽減されるかもしれない。

そう思うと安心感が湧きました。

それ以来問題に関わる時はその時の光景を思いだし、
対応するようにしています。

だからといって怒りや哀しみ、虚しさが
無くなるわけではありません。
人の心はそんな単純なものではないからです。

ですが以前とは違い感情的に関わることが減り、
ドロドロした負の感情も分けてケアできるようになり
随分ラクになりました。

不思議ですね。
問題は解決していないんですが、気持ちは穏やかになっていく。

それまでは救急車をみたり
サイレンを聞くと気持ちが曇りましたが
それ以来、「大丈夫!うまくいく!」を
連想させるシンボルになりつつあります。

見ず知らずの医療従事者の方々の
おかげで気づかせてもらった
問題対処法。

大きな気づきを得た救急外来の機会となりました。

これらは私生活のみならず仕事に対しても活きています。
転んでも、傷ついてもタダでは起き上がらない。
おかげ様です。

◆輪を乱す人への関わり。パシッとさら〜っと境界をひくのも一つ

重なる時は重なるものですね。

しばらく会っていなかった友だちや
同級生、旧知の仕事仲間から相次いで連絡があり、
来月それぞれに集まることになりました。

中には20年ぶりに会う人もいて
わたしゃ気持ちは浦島太郎状態。
きっと皆いいおっちゃん、マダムになってるはず(笑)
少しの緊張とうれしさのある楽しみ感。
やっぱ友だちっていいもんです。

こんな時どの集まりでも中心になってまとめたり繋いでくれたり
言い出しっぺが幹事役をしてくれることが多いですが
ごくたまーーーに、自分は何もせず
いらんことを言うてくる人がいる時があります。
ありません?

例えば
遠方にいる子が帰省するのでその子に合わせて予定調整し、
決まったにもかかわらず、その子自体が
「予定がどうなるかわからないから行けるかわからない」
とか言い出すパターン。

幹事の子が困って私に相談が来た時には
ワケワカメになりました。

それぞれ事情があるでしょうが
ちょっとどうかなと思い、自分の意見を言いました。

「合わせなくていいと思う。
こちらのベストの日を決めて
来れるんやったらどうぞって私なら言うわ」  

パシッ!さら〜っときょーかい線!

色んな価値観や温度があるかと思いますが
複数人になるほどどこかで折り合いをつけないとね。
振り回されないよう調整することも必要だと感じた経験でした。

こんな時本人と話し合うも一つですが
距離間や言い方で感情論になり
会自体がこじれる可能性もあります。
ならば否定も肯定せず線をひくのもひとつかなと。

それと自分も悪気なく自覚なく
振り回しているかもしれないので気をつけなきゃですね。

◆意地悪な心

自分の中に利他的な心もあれば
意地悪な心も存在します。

意地悪が発動する時は相手が嫌いな人である場合もあれば、
直接何かされたわけではないのに、言い易い相手だからという理由や
中には普段仲がいいのに発動してしまう時もあります。

する側よりされた側はずっと覚えていることが多いと思います。

一方で私は、自分が人にやった意地悪を思い出す時もあります。

それは学生(中1)の時でした。
ある子の体型や容姿に関してどうにもかえれない部分をツッコミ、
その子の困る顔をみてどこかスッとする感覚を味わっていたのです。

そのスッとする感覚とは「優越感」ですが
結局それが原因で後にその子や周りから無視されるようになり
本人にゆるしてもらうことは出来ませんでした。

人に意地悪な心がわき実行してしまう時。
決して弁明したり弁護するわけではありませんが、
やる側は心が満たされていません。

・人に十分に認めてもらえていない。
・何らかしらの圧やストレスを
 抱えてきている。
・安心できない人間関係の中にいる。
・心配や不安がある。
・かまってもらえてない。
・寂しい。
・条件つきでしか愛されない。
・他から意地悪されてきている
 など

このようなカッスカスの心の状態だと
歪んだ形で自分を満たそうと
人を利用してしまう、、、かなしいですね。

今となっては当時の相手に
もう会うこともこの先多分ないでしょうが、
思い出すたび胸がチクチクするのは
これからも変わらない。
自分がやったことの代償だと思っています。
本当に申し訳ないことをしました。

そして同時に当時の自分に対し、
時空を超えてたっぷり愛情を注いであげることも
続けたいと思っています。

◆注意や指摘の受け方

ほめられると気分がいい。
注意や指摘を受けると
気持ちが下がる。
大概はそうですよね。

私も例外なくそうです。
褒めてもらうの大好きだし、いっくらでもwelcome!

だけれどよくよく考えると
これまでに注意や指摘、フィードバックのおかげで
自分の見えていないところ、
先での大難が小難になることを気付かせてもらえたり、
その時は痛かったり格好悪くても、
長い目でみるとそれがあってこそ
心や技術が育ったなぁと思うことが多々あります。

そしてそれらを成長の糧に出来るかどうかは
受け取る時の「素直さ」にかかっていると思う。

あと最終的に「感謝」の気持ちを沸かせることが出来るか?
これもポイントですね。

素直な人って好印象だし結果的に愛され可愛がられます。

なので何か注意や指摘を受けた時
落ち込んだり腹が立ったとしても、
まず素直に聞いて振り返ってみようと思います。

例え、感情がおいつかなくても
とりあえず「ありがとう」と言うてみる。

何のため?って
それは紛れもなく自分のためになるからさ。

あ、理不尽な指摘や注意、パワハラは論外です。

◆人間関係をよくする接続詞

雨の日曜日。

その日の午前中は定期的に受講している
スクールカウンセラーや
心理士、心理師の研修でした。

毎月、講師やテーマは変わります。

今回のテーマは
「スクールカウンセラーの行う研修~伝える言葉・伝え方~」でした。

講師は臨床心理士で研修や
カウンセリングなど20年以上の経験豊かな先生。
研修もひっぱりだこのご経験豊かな先生でした。

研修内で繰り返しおっしゃっていた一つは
「ことば」の大切さです。

これは普段使う言葉もですが、
安易な接続詞は使わない方が良いというお話でした。

避けた方が良いことば、例えば
『でも』
『というか』
『が』
『だから』
『こうした中で』
『いずれにしましても』
などだそうです。

なぜなら、接続詞によって逆説的になり
これまでの話しがチャラになったり
話しがボヤけ肝心なところが
曖昧になったりするからとのこと。

確かに!

知り合いで「でも」「というか〜」が口癖の人がいますが
言われるたびに否定されてる気になったり
モヤッとする時があります。

あ、人のことゆーてる場合やない!
私は「逆に」てよう言うてる〜

では使うと良いワードはというと
『つまり』
『言い換えれば』などだそうですよ。

研修だけに限らず言葉のやりとりって
人付き合いに不可欠ですね。

つまり、言葉に気をつけると
人間関係が良くなるってことね。

早速「つまり」を使ってみた(笑)
普段から意識したいと思いました。